釈迦如来像といえば、深大寺の国宝・釈迦如来像というほど有名です。
7世紀後半から8世紀初頭の飛鳥時代後期、いわゆる「白鳳」と呼ばれる時代につくられ2020年11月現在、法隆寺 夢違観音像お身代わりと新薬師寺 香薬師像お身代わりをお迎えし、「釈迦堂」に於きまして特別拝観を行っております。
インドでは釈迦の姿を彫像としてあらわさず、菩提樹、仏足、輪宝、舎利塔などのモニュメントで象徴として釈迦の姿を表現していました。
しかし、釈迦入滅後500年ごろから釈迦の姿が見たいという人々が増え、ガンダーラやマトゥ-ヤ地方で仏像が作られ、それが各地で広がり、中国、日本に伝わりました。
インドでは釈迦の一生を石板に浮き彫りにした図画や釈迦の物語を現した本生図が盛んにつくられ、寺院や仏塔の周りに廻らされましたが、日本では単独の彫像としての制作が多く作られました。
〒182-0017 東京都調布市深大寺元町5-15-1
TEL:042-486-5511
深大寺の釈迦如来像とは
深大寺開創の天平5年(733)より前に文化の中心であった畿内地域において、ほかの2躯を手がけた同系統の工人によってつくられ、その後深大寺の本尊として迎えられたと考えられます。
正式名
銅造釈迦如来像(白鳳仏)
どうぞうしゃかにょらいぞう(はくほうぶつ)
高さ
像高 83.9㎝
制作年代
飛鳥時代7世紀~8世紀初
銅造釈迦如来像(白鳳仏)深大寺の釈迦如来像の歴史
天保12年(1841)、深大寺79世堯徧が纏(まと)めた『分限帳(ぶげんちょう)』に丈二尺余の釈迦銅仏とあるのが最も古く、当時は本堂の脇仏として安置されていました。
しかし、この頃の深大寺は、慶応元年(1865)の深大寺諸堂炎上以来、 本堂の再建などままならぬ状況下であり、本像は、とりあえず慶応3年に本堂を差し置いて再建されていた元三大師堂の須弥壇下に仮置きされたまま、年月が経ってしまい、次第にその重要性が忘却されてしまったようです。
そのようななかで、明治42年(1909)、当時東京帝国大学助手であった柴田常恵によって元三大師堂の須弥壇下から本像は再発見され、これにより深大寺の名は本像とともに日本中に知られるようになり、大正2年に本像は旧国宝指定となったのです。
その後、昭和25年の文化財保護法施行で重要文化財となりましたが、このたび、新たに国宝指定を受け、関東所在の仏像としては神奈川県高徳院銅造阿弥陀如来坐像、東京都大倉文化財団普賢菩薩騎象像に次ぐ指定となり、寺院伝来の仏像としては都内寺院唯一にして、東日本最古の国宝仏誕生となりました。
銅造釈迦如来像(白鳳仏)深大寺の釈迦如来像の特徴
そのお姿はまさに国宝にふさわしく優れた造形美を讃えています。
螺髪をあらわさず平彫りとし、三道をあらわします。両手を屈臂し、左手は膝の上で掌(てのひら)を仰ぎ右手は掌を前に向けて立てそれぞれ第3、4指を深くその他の指は軽く曲げています。
衲衣(のうえ)は左肩から背面を覆い右肩に少し掛かり、肘から正面を通って左肩に掛け、裙(くん)は正面で打ち合わせ、裾を台座上に広げ、両膝を開いて台座に倚坐(いざ)します。
また指先などに見られる肌の柔らかな写実的表現と規則正しく折りたたまれる衣文(えもん)の整った形式的な表現が見事に溶け合っています。ひときわ目を引く倚(い)像(ぞう)という形は、飛鳥時代後期から奈良時代にいたるまでのいわゆる「白鳳」期にみられる形式です。
本像は蝋型(ろうがた)鋳造(ちゅうぞう)による一鋳で、像内は像底から頭部にかけて大きく空洞になっており、銅厚は1㎝内外とほぼ均一で、重さは53㎏です。
表面仕上げについては従来鍍金(ときん)とされてきましたが、近年の科学的調査では、鍍金に必要な水銀は検出されず、金色の施し方は検討課題になっています。
保存状態は右手第3、4指先が欠失し、像表面が少し荒れているほかはきわめてよい状態です。すなわち本像は、造像当初の姿をよくとどめる白鳳仏としてきわめて貴重です。