阿弥陀如来像といえば、鎌倉・高徳院・阿弥陀如来像。
私も鎌倉まで阿弥陀如来像を観に行ったことがありますが、圧巻としか言いようのないお姿です。
阿弥陀如来は浄土用信仰の主尊です。
したがって、浄土教美術の中心的尊像です。
様々な印相で表現され、印相により余願・施無畏印、転法輪印、禅定印、來迎印の4種に大別できる。
平安時代中期以降になると、衆生の能力、資質に応じた九つの段階「九品往生」に従って、異なる印結んだ「九品来迎印」を結ぶ阿弥陀仏像がつくられるようになった。
阿弥陀如来像とは
浄土真宗においては、阿弥陀如来一仏を本尊とする。中心教義も阿弥陀如来の本願力[注釈 3]にのみ帰依することとする(詳細は、他力本願を参照)。真宗においては、『観無量寿経』の「住立空中尊」という表現から、立像であるべきとされる。
末法濁世の衆生は、煩悩具足の凡夫であり、自らの力では、いかなる善も完遂しえないとする。そのため「他力」によってのみ救済されるとする。
釈尊が「浄土三部経」によって説かれたことに由来し、善導は『観無量寿経疏』にて、法然は『選択本願念仏集』(『選択集』)にて注釈し、それらを受けた親鸞が『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)において引用・注釈する。この事は『歎異抄』の第二章に、端的に述べられている。
最も優れた仏としての阿弥陀仏
浄土教諸宗において主に用いられる『仏説無量寿経』では、「無量寿仏の威神光明、最尊第一にして、諸仏の光明及ぶこと能わざるところなり」、親鸞の著書『顕浄土真実教行証文類』では、「十方恒沙の諸仏如来、みな共に無量寿仏の威神功徳不可思議なるを讃嘆したまう。また言わく、無量寿仏の威神、極まりなし。十方世界無量無辺不可思議の諸仏如来、彼を称嘆せざるはなし」「諸仏中の王なり、光明中の極尊なり」とする。
根本仏としての阿弥陀仏
西山深草派の顕意は、阿弥陀如来を一切の仏の根本とし、諸仏は阿弥陀仏を化主とすると主張する。この理解の教証として顕意は、善導が『般舟経』に依拠して説いた言葉である「三世の諸仏は念弥陀三昧[注釈 6]によって正覚を得た」をあげる。しかし、鎮西派の良忠は「念阿弥陀仏三昧」は『般舟経』においては説かれず、一切の仏は阿弥陀仏を念じて成仏した訳ではないとし、「念仏三昧」を「念阿弥陀仏三昧」とする理解は阿弥陀仏を「法門の主」とするための善導の独自解釈だとする。
簡単に言うと、お釈迦様が私の先生であると紹介したのが阿弥陀如来です。