今回は我孫子市:子ノ神大黒天・延寿院のご紹介です。
私は40年ほど我孫子に住んでいるのですが…初めて行ってきました。すみませーん。
子之神大黒天
〒270-1152 千葉県我孫子市寿2丁目27−10
沿革
予之神大黒天は足腰の病に霊験有りと広く知られ、安政三年(一八五六)、子之権現社の名で江戸の深川永代寺で出開帳を催した時、寺社奉行の命で日限半途で中止となり、子之神大黒天と改名をさせられた。
大正七年(一九一八)、旧我孫子宿の街道筋にあった別当寺延寿院と合併して、現在は白花山延寿院甲子寺とさらに改名されている。
本尊は不動明王と子之神将。
大黒天と子の神がいらっしゃいました。
真言宗豊山派の寺である。近年まで神仏混淆の名残りとして山門わきに明神鳥居の残材が積まれていた。
「子之神大黒天略縁起」によれば、行基が諸国の国分寺巡 錫のおり、下総国分寺で薬師如来と十二神将、大黒天を刻こんこうじゅんしゃくあじゃりんで安置した。
しかし寺が度々火災に遭うのでそれらを奉遷することになり、子之神将と大黒天の尊像を宥啓阿闍梨が自から笈に納めて各地を巡った。我孫子の里まで来た時に三方に湖水をのぞめ、厄除柊が群茂するこの地に縁を感じ、康保元年(九六四)正月八日子の日に一宇を建立したという。
延寿院について
延寿院は開山、開基とも不明。現在の本町三の六にあった寺で、明治五年に我国に学制が敷かれた時に我孫子第一小学校創設の場所となった。
大正初期までその境内では毎年一〇月に芝居興業が催されていたことが志賀直哉の「流行感冒」に書かれている。まさにその証になる仏具が寺に残されている。
整子と呼ばれるもので、嘉永五年(一八五二)の銘があり、七代目市川海老蔵(元七代目団十郎)とその長男の八代目団十郎が延寿院に寄進している。
七代目海老蔵の子供達男女一一名の名前と子孫繁栄、先祖供養祈願が刻まれている。
七代目海老蔵は団十郎時代に江戸十里払いを受けた役者として、また八代目団十郎は名優として知られていたが、江戸の座元と大坂の座元と興業の板ばさみになり、この寄進二年後に自殺をした。歌舞伎史上よく知られた二人だ。
宝暦四年(一七五四)銘の半鐘は肥前長崎の住民多数の連名があり、戦時中に供出されたが無事帰還した。
昭和四五年にカヤ葺きの本堂を焼失し、古記録や古い伝説が残る阿弥陀の松や頼朝公手植の松などの名木も失った。昭和四六年に再建された本堂は七間五間の入母屋コンクリート建築、千鳥破風付銅板葺きの堂々とした建物である。
子之神大黒天には幾つもの伝説があったがその代表的な話は「頼朝の松」だ。
治承四年(一一八〇) 源頼朝は石橋山の敗戦後、旗揚げのため各地の武将を訪ねていた時、我孫子の里まで来ると足腰が痛く、一歩も進むことができなくなった。
ひいらぎさいとう ごま里人に進められて子之権現社で快癒を一心に祈った夜、夢の中に子の権現の化身である翁が白いネズミに乗って現れた。
手にした 柊の一枝で患部を払うと翌朝すっかり癒っていた。
その後、頼朝は鎌倉幕府を開き、感謝をして社殿を寄進して一本の松を植えたという。
毎年10月の第四日曜日に柴灯護摩が焚かれる。
修験僧が呪文を唱えながら大量に積まれた柴に点火し、残り火の上を僧と善男善女が諸病平癒、家内安全などを祈って素足で火渡りをする。
この日は近在からも多くの人が集まり、大変賑わいます。
前境内には子之神第一号古墳、相馬霊場三八、四三番札所、旧領主山高氏惜別の碑、ぼけ封じ関東二番札所などがある。
境内案内
大黒天と子の神がいらっしゃいました。